視覚障害者物語
人間は他人を理解することはできません。
それがたとえ親子であっても恋人であっても。
機動戦士ガンダムというアニメに出てくる主人公アムロレイが持っているニュータイプ能力でもないかぎり、本当の意味で相手を理解するということはできないでしょう。
もし、あなたのお子さんが、視力の弱いもしくは目の見えない状態だったらどうしましょう。
この話は健常者(普通に目が見える人)の両親から、視力に障害がある子供=ぼく(木村秀一)が生まれてから今日までの人生を描いた実話です。
「木村秀一物語」とでも名付けておきましょう(笑)。
(注)この話に出てくる人名は適当につけたものです。
幼児期
ぼくの最初の記憶は、家の柱にしがみついて台所をじっと見つめながら、あそこまで這って行こうか、それともがんばって2本足で歩いて行こうか、ひたすら考えているというシーンです。
よっぽど真剣に悩んだんでしょうねー。
本当にそのシーンだけ覚えていて、結局その後どうしたのかまでは覚えていないんですけどね(笑)。
あとは、ひたすら家の中を歩き回っている記憶が多いですね。
外の記憶はほとんどありません。
べつに幼児期から引きこもっていたわけじゃないんですが、外に出ると、太陽の光がまぶしすぎて、何も見えなくなってしまうからです。
なのでぼくが外に出るときは、親か2つ年上の姉にいつもくっついていました。
幼稚園
姉が幼稚園に通ってくれていたおかげで、その続きでぼくも同じ幼稚園に入ることができました。
詳しいことはわかりませんが、きっとぼくの知らないところで親ががんばってくれたんだと思います。
姉や妹が幼稚園に2年間通ったのに対し、ぼくは3年間通いましたからね。
当時は「幼稚園になれるため」と聞かされていましたが、今考えるとあの時代の幼稚園にしては、かなりの挑戦だったのではないかと思います。
天神山幼稚園というんですが、敷地内にお寺があって、たまにお抹茶とお菓子を食べる授業?がありました。
帽子の形が変わっていて結構かっこよかったので、今でもチャンスがあればかぶってみたいとひそかに思っていることは秘密です(笑)。
幼稚園時代も何かを積極的にやったり、友達と遊んだなどの記憶はありません。
ほとんど先生が横にいてくれて、何から何までやってくれたんじゃないかと思います。
記憶に残っているのは、親が迎えに来る夕方まで、先生と2人で教室でおり紙をしていたことです。
先生がおり紙を1枚1枚ぼくに手渡しながら、色当てクイズをしてくれるんですが、色盲だったぼくは結局1つも当てることができませんでした。
それでも最後は、一緒になっており紙で遊んでくれました。
そんなほとんど記憶のない幼稚園時代ですが、ひとつこころ残りがあります。
それは、もっとグルグル滑り台で遊びたかったという思いです。
幼稚園の敷地内にグルグル滑り台という遊具があったんです。
普通の滑り台のように、上まで登ってそこから滑っておりてくるだけの遊具なんですが、滑る部分がらせん状になっていて、グルグル回りながら滑りおりるんです。
授業のときにはじめて体験して、純粋にもっと滑りたいと思いました。
だったら滑りにいけばいいだけの話なんですが、そう簡単にはいきません。
お昼休みの時間とかに、グルグル滑り台で遊ぶことを試みるんですが、お昼って太陽の光がまぶしいじゃないですか。
そんなに広い幼稚園じゃないんですが、グルグル滑り台の場所がわからず遊べませんでした。
くもりの日でさらに目の調子が良ければグルグル滑り台を見つけることができたので、その時に数回滑っただけでした。
卒園式が終わって親と一緒に帰るとき、ふと遊具の方を見てたら、偶然グルグル滑り台を見つけました。
「最後に遊びたいなー」と思ったんですが、すでに親と手をつないで歩いていたので、言い出すことができませんでした。
その時のことがよっぽど心に強く残ったんでしょうねー。
今でもたまにあの時のことを思い出して、あの時もしぼくがもっと勇気を出して「グルグル滑り台で遊びたい」と親に言うことができてたなら、きっとこんなに後悔しなかったでしょうね。
身体障害者手帳
普通の子のようにいかないのであれば、自分が視覚障害者であるということを、学校や社会に証明しなければなりません。
自分が身体障害者であることを証明するためには、病院に行って医者から診断書をもらい、それを役所に提出して身体障害者手帳をもらわなくてはいけませんでした。
それを小学校入学前までに用意しなくてはいけなかったので、幼稚園時代の最後の1年は、なんだかせわしなかったです。
病院にしょっちゅう通っていたせいか、そこでも忘れられない記憶があります。
それは、ぼくの目を診察してくれた医者が、ぼくの目の病気について直接話してくれた時のことです。
ぼくは視神経萎縮と診断されました。
視神経萎縮とは、人は光を眼球内の網膜でとらえ、その情報を視神経を通じて脳の視覚野に送ります。
視覚野に送られてきた情報は過去の情報と照らし合わせるなどして分析されその結果、人間は目の前のものを認識できます。
視神経萎縮というのは読んで字のごとく、眼球と脳をつないでいる視神経が普通の人より細いのです。
先生はボールペンをぼくの目の前に持ってきて、普通の人がこのぐらいの太さだとすると、キミはこの半分ぐらいしかないと教えてくれました。
そして「今の医学ではキミの視神経を太くすることはできないから、キミはほかの人よりもがんばって生きていかなきゃダメだからね!」
とぼくの目をじっと見つめて一生懸命教えてくれました。
いつもはとても優しい先生なんですが、あの時だけはすごくこわかったです。
小学校の選択
こどもの目が悪い場合、小学校入学前に親は大きな選択に迫られます。
それは、我が子を普通の小学校に入れるべきか、盲学校に入れるべきかという問題です。
実は幼稚園を選ぶ段階でも、普通の幼稚園や保育園に入れるか、盲学校に入れるかという選択があるんですが、義務教育じゃないので家で育てても問題ないんです。
ですが小学校からはそうもいきません。
親ならば子供に教育を受けさせる義務があります。
なので、ほとんどの親が悩みに悩んで学校を選びます。
ぼくの家もそうでした。
今は視力に障害があっても、普通学級に入れてくれる学校が多いです。
というのも、iPadや拡大読書機などの補装具が充実してきたので、細かい教科書やプリントの字が読めたり、授業の内容をデータでもらえたりするなど、学校側も視覚障害者の扱いに慣れてきたからです。
でもぼくが小学校時代のころは、iPadなんてものはありませんでしたし、拡大読書機も今に比べてめちゃめちゃ高かったので、全然買えませんでした。
なにより当時の学校側に視覚障害者を受け入れるノウハウがありませんでしたからね。
しかし、我が子の目が悪くても少しでも見えているのであれば、普通の子と同じように育ててやりたいと思うのが健常者の親心。
まぁ人によりけりかもしれませんが、少なくてもぼくの親はそういう感覚でした。
なので、一応ぼくには「普通学校と盲学校、どっちに行きたい?」と訊くんですが、普通学校一択みたいなもんでした(笑)。
親がよく言ってたのが、ぼくが盲学校に通うと、姉や妹だけでなく近所の子たちとも別の学校になるわけだから、一緒に遊ぶ友達がいなくなるというものでした。
当時ぼくたち家族は、名古屋の市営住宅に住んでいたので、ひとつの建物にたくさんの子供がいました。
今みたいに子供が少ないという時代じゃなかったですからね。
確かぼくの住んでた建物だけでも10人以上いましたから、年が近いのにその子たちとの接点が全くなくなるというのは、今考えるときついですね。
そんなわけで、ぼくはなんとかして普通学校に通わなくてはいけなくなりました。
入学審査
小学校側もいろいろ事情がありますから、ぼくが視覚障害者であることは分かったけど、入学後の授業についていけるのかがわからないなどの理由で何度か入学前に学校に行ったりしてました。
ぼくが記憶にあるのは、かなり拡大コピーされた知能テストをたくさんやらされたことです。
知能テストといっても、小学校入学前の子が受けるようなものなのでぶっちゃけ当時のぼくでも解けるぐらいの簡単なものだったんですが、学校側の狙いは他にもあったみたいです。
というのも、プリントを渡されるときに、毎回いろんなサイズのプリントを渡されて、その後のぼくの様子を観察しているみたいでした。
ぼくが問題を解いていると、後ろでぼくについて話をしているのがまる聞こえでしたからね(笑)。
まぁそんなこともありつつ、なんとか入学許可をいただいたので、ぼくの明正小学校での生活が始まりました。
小学校
小学校は6年もありますしそれだけあれば世界は大きく変わります。
なのでざっくり2つに分けることにします。
小学校低学年
まずは1年生から3年生、つまり小学校時代の前半の話をします。
隣の横井くん
小学校への登下校は、分団登校だったので問題ありませんでした。
しかもラッキーだったことに、ぼくの家の隣に横井くんというぼくと同じ年の子がいました。
彼は登下校だけでなく、学校の中でもいろいろぼくを助けてくれました。
わりとおとなしい子で、絵が上手でキン肉マンとかドラゴンボールとか描いていましたね。
横井くんがいなければ、ぼくの学校生活はもっと大変なものになったにちがいありません。
彼と最後に話したのは、ぼくが高校生の時だったんですが、今でも感謝しています。
ケイドロ
分団下校でみんなと家に帰ってきたら、そのまま遊びの時間に突入です。
ぼくはやっと今日の学校生活が終わったので、ぶっちゃけ家でおとなしくしていたかったんですが、そうもいかずほとんど毎日遊びに狩り出されていました。
3つぐらい上に前田くんという先輩がいました。
彼はなかなか熱い男で、ぼくの目が悪いことを理解したうえで、ぼくもみんなと一緒に遊べる遊びをいつも考えてくれました。
例えば、ぼくが「外は太陽の光がまぶしいから、見づらくなる」と言えば、団地の建物内で遊べる遊びに切り替えてくれました。
具体的には、建物の中でケイドロなどをよくやりました。
ケイドロとは、警察チームと泥棒チームに分かれて遊ぶ鬼ごっこで、時間内に警察チームが泥棒チームを全員捕まえたら警察チームの勝ち、そうでなければ泥棒チームの勝ちになるゲームです。
5階建ての建物の中を縦横無尽に走っていたので、1時間もやればかなり疲れます。
今は絶対できません(笑)。
いつもいつもぼくに合わせていると、ほかの子から文句が出てたりしてたので、くもりの日は外で野球やサッカーをしました。
いくらくもりの日でも、小さな野球のボールは全然見えません。
ぼくは前田くんに「ぼくは野球のボールが見えないから抜けるよ」と言ったことがあるんですが…。
彼は「オレは秀ちゃんが目が悪いだけでオレたちと一緒に遊べないことがゆるせない、だから一緒に遊べるように考えるからお前もがんばれ!」みたいなことを言われたことがあるんです。
もうめちゃくちゃですよね(笑)。
彼はそんな人でした。
でもそんな彼の気持ちにこたえたくて、ボールは見えなくても一生懸命バットを振ったりしてましたね。
もちろん、一度も当ったことはないですが(笑)。
授業対策
教室の席はもちろん一番前で、補装具を使って授業を受けていました。
一番前に座っているにもかかわらず、黒板の字が見えませんでしたから小さな望遠鏡(単眼鏡)を使っていました。
教科書やプリントの字は小さな虫メガネ(ルーペ)を使ってみていました。
もちろんクラスメイトからはものすごく珍しがられましたし、そのぶんのいやがらせもされました。
道徳の授業とかで先生が「目が悪いということはどういうことか?」をみんなに考えさせたときはてれくさかったです。
小学校高学年
次は4年生から6年生、つまり小学校時代の後半の話をします。
一人の時間
高学年にもなると、みんな部活があったりするので、登校は一緒でしたが下校はバラバラでした。
ぼくは部活に入っていなかったので、毎日ひとりで帰っていました。
下校時間も低学年のころよりも遅くなっていたので、夕方近くの下校は、お昼よりはまぶしくないのでひとりでも余裕で帰れました。
低学年のころは分団下校でみんな一斉に家に帰って、そこからみんなで遊んだりしたんですが、高学年になるとそういうことはほとんどなくなりました。
熱い男前田くんは小学校を卒業し、たまに見かけても軽く挨拶する程度になっていましたし、隣の横井くんは部活に入ってしまったので、一緒に遊ぶことはなくなりました。
一応同じクラスの友達もいたんですが、当時は任天堂のファミリーコンピュータ(通称ファミコン)が名古屋の田舎でも大ブームになっていて、ゲームを持っているか、ゲームの話についていけないと一緒に遊ぶことはできませんでした。
ぼくの家はゲームもなかったし、ファミコンは前田くんの家で少しやっただけなので、ゲームの話にもついていけませんでした。
低学年のころは学校から帰ってきたらあんなにもひとりの時間が欲しかったのに、いざ現実になってしまうとなんかさみしいような不思議な気持ちで過ごしていました。
アニメ界への扉
環境が変わるということは新しい出会いがあるものです。
ぼくもありました。
そりゃもう運命としか言えないぐらいの出会いが。
その日ぼくはいつものように学校から帰ってきて、退屈しのぎにぼーっとテレビを見ていました。
そうしたら今まで見たことのない素晴らしいアニメーションがぼくの前に現れたのです。
それは、「戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー」というアニメでした。
これは大人になってから分かったのですが、このとき見たのは偶然にも最初のシリーズの第1話でした。
トランスフォーマーといえば、今では映画の方が有名ですが、一番最初はアニメだったんです。
トランスフォーマーとは、意志を持った生命体が正義と悪に分かれて戦うロボットアニメです。
これだけだとたいしたことない感じがするんですが、このロボットたちというのが飛行機や自動車などに変身(トランスフォーム)するんです。
ロボットだけでもかっこいいのに、それが変身するんですよ。
当時のぼくの心をわしずかみですよ(笑)。
ぼくが特に好きだったのが、ダイノボットと呼ばれていたロボットたちで、ティラノサウルス、プテラノドンやトリケラトプスといった恐竜たちが、ロボットになるというものです。
まさか恐竜にトランスフォームするロボットが出てくるなんて、かっこうよすぎて反則ですよ。
しかもこのアニメは、当時としては珍しくアメリカの会社と共同制作されたものだったので、完全日本製のアニメとはすこし違った雰囲気で、ぼくにはそれがすごく新鮮でした。
アニメ自体もすごく贅沢に作られていて、通常アニメの定番シーンというのは、良いものをひとつ作ってそれを使いまわすのが普通でした。
例えば、美少女戦士セーラームーンやプリキュアなどは女の子が変身するシーンというのが必ずあるじゃないですか。
そのシーンというのは使いまわされるのが当たり前で、トランスフォーマーでも、ロボットが変身するシーンをひとつ作っておいて、毎回使いまわしてもいいんですが、このアニメはそうじゃないんです。
画面手前で歩いているロボットの背景で、別のロボットがトランスフォームしているシーンとかがあるんです。
これって普通に考えれば当たり前のことなんですが、それをアニメで忠実に再現しているあたりが作り手の魂を感じるというか、なんというか、見ているこっちまで興奮してくるんです。
こんな素晴らしいアニメに出会っちゃったものですから、当時のぼくは学校でトランスフォーマーの話をしたくてしたくてたまらないわけです。
でも当時のぼくは、積極的に話しかけるタイプではなかったので、なかなか学校でトランスフォーマーの話はできなかったんですが…。
ついについにやっとひとり見つけ出し、教室でその子と念願のトランスフォーマーの話をすることができました。
ほとんど毎日教室でトランスフォーマーの話で盛り上がっていたら、周りのクラスメイトも気になったんでしょうね、トランスフォーマーを見てくれて、ひとりふたりと話の輪に入ってくれる子が増えてきました。
自分が好きなものについて他人と話をして盛り上がるということが、こんなに楽しいことなんだということを、このときはじめて知りました。
泉本先生
ちょっと変わった先生というのは、どこの学校にもひとりはいるものです。
ぼくの小学校にもいました、しかも担任でした(笑)。
泉本という先生がいたんですが、この人が少し変わっていて、なんというか先生っぽくないんです。
かなり年よりの先生で、教室にカラオケ装置を持ち込んで、授業中はそのマイクでしゃべるんです。
もちろんたまに歌ったりもします(笑)。
ぼくたち生徒に問題を出しておいて、その間に歌うんですよ。
へんですよねー。
さらに、どこからか将棋盤とコマを10セットぐらい持ってきて、ぼくたちに将棋を教えてくれたんですが、空き時間になると先生はクラスで一番強い子と将棋対決してましたね。
将棋対決は毎回教卓で行われるんですが、ぼくも含め興味のある生徒はいつも周りに集まって観戦してました。
たまに先生の命令?で順番に先生の肩もみをさせられるんですが、先生の後ろからだと将棋盤がよく見えたので、ぼくはそんなに嫌ではなかったですね。
そして泉本先生が他の先生とは違うと決定的に思った日の出来事がありました。
当時は土曜日にも、3時間だけ授業がありました。
なので、その3時間、まるまる自由時間にしてくれた日がありました。
教室のテレビにドラゴンボールをつけてくれて、教室内であれば自由にしていいというものでした。
ぼくも将棋をやったり、絵をかいたり、ドラゴンボールを見たりと、授業中とは思えないような時間を過ごしました。
きわめつけは、その日の帰り、クラスのみんなをまとめて先生はみんなと一緒に外へ出たんです。
先生は生徒数人とお店に入って行き、袋を持って出てきました。
その袋の中にはアイスが入っていて、クラス全員にごちそうしてくれました。
ぼくは小学生ながら、先生が違うとこんなにも変わるものなんだと感心しつつも、「先生っていう仕事はすごいなー」と実感していました。
泉本先生の生徒だったあの1年間は、今でも忘れられません。
卒業前
もうすぐ小学校の卒業式というある日、突然ぼくの家に隣の横井くんが、同じ建物の子たちと遊びに来たことがありました。
そんなこと小学校低学年以来数年ぶりの出来事だったので、ぼくは驚きながらも喜んで遊びに参加しました。
あの時のようにケイドロをしたり、レゴブロックで遊んだり、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。
もう夕方6時を過ぎてどこの家でも晩御飯です。
ひとり抜けふたり抜けて、最後は横井くんとふたりになりました。
ぼくたちも家に向かっているとき、横井くんが言いました。
「もう秀ちゃんとこうして遊ぶことはないと思う」
「中学に入ったら部活で忙しくなるし、一緒にいてももう話が合わないし…」
ぼくは、「そうだね、遊んでくれてありがとう」とだけ言って家のドアを閉めました。
家に入ったけど、しばらくはぼーっとしてしまって、何も考えられませんでした。
けんかしたわけじゃないのに、なんだかすごくくやしくて、その後のことはよく覚えていません。
でも、ぼくのような視覚障害者が、小学校生活を楽しくおくれたのは、横井くんのおかげです、本当にありがとう。
中学校
富田中学校に入学してからしばらくは、学校生活に慣れるのに精いっぱいでした。
まず、中学校までの道が遠い、早足で歩いて30分はかかりましたからね。
まずは、中学校への道のりを覚える必要がありました。
といっても、小学生時代の同級生の群れにくっついて家の近くまで行けたので、そんなに苦労はしませんでした。
挫折
中学校は小学校と違い、いろいろ苦労しました。
まず、みんな同じに見えてしまって、誰が誰だかわからないという問題が起こりました。
みんな制服を着るので、顔を見ないと誰だか区別がつかないんですが、ぼくはかなり近づかないと顔が見えないので、声と体系で区別するしかありませんでした。
あとはやはり、勉強についていけませんでした。
勉強が難しいからというわけではないんですが、ついていくための努力をするのに疲れたといいますか、怠けることを覚えてしまったので。
具体的には、小学校時代に比べて、黒板に書く先生の字が小さいんです。
なので何が書かれているのか単眼鏡で読み取るのに時間がかかってしまい、黒板を全部書き写す前に消されてしまうという事態が頻発しました。
それならば、家でその分勉強すればよかったんでしょうが、穴だらけのノートを見ると、そんなモチベーションはどこかに吹き飛んでしまいました。
体育の授業も、見学するだけの授業が増えました。
球技大会はバレーボールだったんですが、当然ボールが全然見えず、ずっと見学していました。
その時はぼくのクラスが優勝したんですが、ぼくは完全にかやの外でした。
愛すべき不良たち
仲が良かった小学校時代の友達とも別のクラスになり、新しい友達もできなかったので、ぼくはまたひとりになりました。
目の悪いやつがひとりでいるわけですから、当然不良たちに目を付けられました。
最初はいきなりメガネを取られたり、後ろからけられたりとかしてたんですが、ぼくが本当に目が悪いんだということを理解したんでしょうね、ぼくに対する不良たちの態度がだんだん変わってきました。
もちろんいきなりメガネを取ってくるやつはいたんですが、同時に、そんな行為を止めてくれる不良が出てきたんです。
彼らは確かに学校側から見れば素行が悪いので不良なんですが、普通の生徒よりもぼくのことを理解してくれて、ぼくが困っていたら助けてくれました。
ぼくも彼らといたほうが落ち着いたので、学校にいるときはほとんどいつも一緒にいました。
おかげでぼくも先生たちから不良扱いでしたが(苦笑)。
ある日の帰り道、ひとりが当たり前のようにタバコを吸い始めました。
ぼくも仲間ですから吸ってみようかなーっと思い、「1本ちょうだい」って言ったことがあるんです。
でも、彼は「お前はやめた方がいい」と言ったんです。
ぼくのことを心配してくれたのか、ぼくはここでも仲間外れになっていただけなのかはわかりませんが、不良ってなんなんでしょうねー。
爆弾づくり
不良たちとの遊びで今でも忘れられないのが、爆弾づくりです。
「打ち上げ花火というのは、空で爆発させるから花火なのであって、地上で爆発させたら爆弾だよなー」という発想らしく、ある日、下校途中に花火をたくさん買ってきて、爆弾を作ろうとしたことがありました。
具体的には、花火の皮をむいて火薬をむき出しにし、缶にたくさんつめて火をつければ、ちょっとした爆弾の完成です。
ぼくたちはみんなでひたすら花火の皮をむき、缶に敷き詰めました。
いよいよ点火です。
ライターで火をつけて、ぼくたちは安全のために離れました。
でも、ちっとも爆発は起こらず、ただ中身が静かに燃えただけでした。
あれ?なんでだろう??
ぼくたちは勢いよく火花が飛び散る様子を思い浮かべていたんですが、現実は厳しく、そううまくはいきませんでした。
バカですよねー、頭悪いですよねー、こんなことを全力でやってたわけですから。
やればできる
不良とは基本的にはバカなんですが、そんなバカが世界を変えることがあります。
長尾くんという不良仲間がいたんですが、ある日突然「オレ生徒会長になる」って言い出したんです。
彼は何か悪いものでも拾って食べたのでしょうか?
ワンピースもまだ始まっていませんよ、モンキーDルフィーもびっくりです。
ぼくも含め周りは「何を言っているんだ?」という空気でしたが、長尾くんは結構喧嘩も強かったので、どう返事をしたらよいのかわかりませんでした。
そうしているうちに、彼の挑戦は始まりました。
彼もいきなり生徒会長になれないことは十分承知していたらしく、まずは勉強を頑張って学年順位を上げるところから始めました。
その日から学校ではいつも、不良グループの中でもおかまいなしに教科書をひろげるようになりました。
彼のすごいところは、誰であろうと勉強ができそうなやつを捕まえてきて、腕力で脅しながら?無理やり勉強を教えてもらうという反則的なスタイルでした。
ドラえもんで言えば、ジャイアンが腕力で脅しながらできすぎくんから勉強を教えてもらってる感じです。
これはもうなんというか、もう見てて面白かったです。
そうして毎日勉強していると、結果は嫌でもついてくるものです。
長尾くんの学年順位は、最初ほとんど最下位近かったんですが、100位を切り、50位を切り、ついにベスト10に入るようになりました。
そんな彼をぼくは近くで見ていて、「人間ってやれば本当にできるんだなー」と思わされました。
勉強プラス生徒会選挙の準備などで、彼はだんだんぼくたち不良グループから離れていきました。
ある日、長尾くんがぼくの肩を強くたたいて、「お前もがんばれ!」と言ってくれたことは今でも忘れられません。
探偵ゲーム
勉強についていけなくて、不良グループの中にいたぼくでも、楽しかった授業がありました。
それは中学2年の時のレクリエーションでした。
「探偵ゲーム」という遊びをやったんですが、これがめちゃめちゃおもしろい。
探偵ゲームとは、まず6人程度でグループを作ります。
続いて新聞などを丸めた棒と、人数分のカードを用意し、1枚は「犯人」、1枚は「共犯」、1枚は「探偵」、残りは「市民」と書いておきます。
カードをシャッフルし、内容を隠して全員に配ります。
カードが配られたら、それぞれ内容を確認し、全員机にふせます。
全員が机にふせた後、犯人と共犯はこっそり顔を上げ、お互いを確認したら事件を起こします。
どんな事件を起こすのかというと、新聞紙を丸めた棒で机にふせている誰かの頭を叩くんです。
たたかれた人は、声を出して10秒数えるので、その間に犯人と共犯は、すみやかに棒を戻して机にふせて市民のふりをします。
10秒数え終わったら、全員顔を上げ、たたかれた人(被害者)と探偵がそれぞれなのりをあげます。
ここからみんなの証言をもとに、探偵は自由に推理を展開し、犯人と共犯を追い詰めます。
このときのルールとしては、市民は絶対嘘をついてはいけません。
犯人と共犯は、嘘をついて探偵の推理を混乱させます。
そうして探偵は事件を推理し、犯人と共犯が誰であるかを宣言します。
もし探偵が宣言した2人のうちどちらかでも犯行に関与していたなら探偵の勝ち。
2人とも市民だったなら、犯人と共犯の勝ち。
そしてもし探偵が勝ったなら、被害者は、犯人と共犯の頭を新聞紙の棒でたたくことができます。
これを時間まで繰り返します。
たったこれだけのゲームなんですが、何回かやっていくうちにだんだん盛り上がって、終わるころにはすっかりみんな役になりきってるんです。
特に探偵が被害者になったときは楽しいですよ。
だって、自分の推理でたたき返せるかが決まるわけですから、自然に力も入りますよ(笑)。
パソコン部
長尾くんの影響で、ぼくも勉強を頑張ろうと思ったのですが…。
頭のいいヤツを腕力で脅して勉強を教わるという長尾作戦は、ぼくには使えなかったので別のことで頑張ることにしました。
勉強以外で何かを頑張るといえば、やっぱり部活でしょう。
当時はスラムダンクの影響で運動のできる生徒はほとんどバスケ部に入っていたような気がします。
もちろんぼくは運動もできなかったので、運動部以外で入れそうな部活を探していたら、「パソコン部」といういかにもオタクっぽい名前の部活があったので、ぼくは迷わず入部しました。
実はぼくが中学1年ぐらいの時、親戚からパソコンをもらっていました。
パソコンといっても今のようなものではなく、外付けキーボードを二回りぐらい大きくした本体にキーボードが付いていて、外付けモニタにつないで使うというものです。
カセットテープにデータを記録したり、ロムカートリッジに入っているゲームで遊べたりしたんですが、1時間も使わない間にモニタの調子がおかしくなるという不良品でした。
しかもゲームも1種類しか入っていなかったので、まずはゲームで遊んであきたら付属のマニュアルに載っていたプログラムを書き写すということをしていました。
まぁでも理解しながら書いていたわけじゃないので、結局そのプログラムは動かなかったんですけどね。
そんなことがあったので、パソコン部でリベンジしてやろうと思ったわけです。
パソコン部はコンピューター室で活動するんですが、その部屋はいつもカギが閉まっていて、中にはきれいなパソコンがたくさん並んでいました。
何の実力もないんですが、その部屋でパソコンを使っていると、なんだか自分がすごいことをやっているような気がして、ぼくは毎日パソコン部に顔を出すようになりました。
パソコン部には、すでに卒業した先輩が作ったモグラたたきゲームがありました。
デスクトップパソコンのキーボード右側には、電話のプッシュボタンみたいな数字キーの集まりがあるじゃないですか、あれをテンキーというんですが、その早押しゲームです。
プログラムを実行させるとまずはレベルを選択し、ゲームスタートです。
ゲームが始まると、テンキーと同じように画面が9分割され、数字の書かれた穴が9個表示されます。
すぐにどこかの穴からモグラが出てくるので、対応するテンキーを時間までポンポン押していくという流れです。
時間が来るとゲームが終了し、成績が表示されます。
ぼくたちはよくそのゲームで点数を競って遊んでいました。
でもぼくにはひとつ不満な所があって、それは背景色がまぶしいというものでした。
普通の人にはこれでいいらしいのですが、ぼくにとってはまぶしすぎるので、いつも低い点数しか取れませんでした。
ぼくひとりしかいないときは、教室の電気を消してモニタの明るさだけにして遊んでいました。
やはりそうすると、今まで見たことのないような高得点を取ることができました。
でも、その場にいるのはぼくひとりですから、だれもこの感動をわかちあってくれません(涙)。
ならどうすればよいか、答えは簡単、プログラムを書き換えてぼくにもプレイしやすい背景色にしてしまえばいいのです。
その日からぼくの挑戦が始まりました。
毎日毎日、パソコン部の部屋にあったプログラミングの入門書と、モグラたたきゲームのプログラムコードを開いて解読作業をしました。
でも、その入門書の文字が教科書よりも小さかったので、少し読み取るにもかなりの時間がかかりました。
もちろん当時はインターネットなんてありませんでしたから、その本だけが頼りです。
これを作った先輩も、きっとこの本を読んで作ったに違いないと自分の中で無理やりな理屈を立てて、毎日頑張りました。
本を読んでもわからない部分は、実際のプログラムコードを書き換えてから実行するという、今考えると神をも恐れぬこともしてましたね(笑)。
その結果、数か月後、やっと背景色を設定しているところを見つけました。
このときはめちゃくちゃうれしかったです。
早速、背景色を変更してから保存し、そのプログラムを走らせてみました。
やりました!
指定した色になっているかわわかりませんが、背景色が暗くなっています。
これなら教室の電気をつけたままモグラたたきゲームをプレイできます。
ぼくは早速、ゲームをスタートさせました。
でも次の瞬間、思ってもいないことが起こりました。
それは、背景色が元に戻ってしまったのです。
ぼくが変更したと思っていたのはゲームプレイ中の背景色ではなく、ゲームプレイ前後のメニュー画面の背景色だったんです。
えーっと思いながらも、ならば今度は、ゲームプレイ中の背景色を設定しているところを探して…とも思いましたが…。
残念ながら、もうぼくは3年生であと数回しか部活に出れなかったので、これでぼくのパソコン部生活は終わりました。
すべて無駄になったので、すごく悔しかったですが、プログラミングの基礎も知らずにいきなり100行以上もあるプログラムを書き換えようとしたわけですから、当然と言えば当然の結果でした。
この時ばかりは今度プログラムを書くときには、もっとしっかり基礎から学習しようと強く思いました。
恐怖体験
中学3年といえば、進路問題がありますよね。
中卒で働くのか、高校に行くのだとしたらどのあたりのレベルにするのか。
考えるだけで、あぁ恐ろしや(笑)。
ぼくの成績はもちろんよくなかったので、高校に行けなくもなかったけど、最低ランクの高校しかねらえませんでした。
そんなことよりも、ぼくの視力で中学時代もあんなにきつかったのに、高校生活を営めるのか?
だったら盲学校という選択肢もあるんですが、当時のぼくはせっかく普通学校でここまで頑張ってきたんだから、いまさら盲学校に入ったら負けだという今考えると謎なプライドを持っていました。
なので盲学校は考えてなかったんですが、ある事件を境に、盲学校に進むことを決めました。
その事件とは交通事故です。
ぼくは太陽の光が苦手で、昼間に外へ出るときはなるべくゆっくり動いて、なるべく他人とぶつからないようにしていました。
当然信号も見えなかったので、車や歩行者の動きを見てなんとなく渡っていました。
これだけ書くと危なっかしいんですが、これでなんとなく横断歩道を渡れてしまっていたし、家族ですらぼくが信号を見えないことを知りませんでしたからね。
まぁ実際、くもりの日とか夜とかになると信号が見えるようになるので、信号が見えないといってしまうと少し違うんですけどね。
これが弱視の難しいところであり、理解されないところです。
まぁでもぼくは自分が視覚障害者であるという自覚が希薄なので、どんな日でも横断歩道をひとりで渡っちゃうわけです。
そんなことをしていたある日、みごとに車にはねられました。
今もたまにあの時のころのことを思い出そうとするのですが…。
人間の脳とはすごいもので、ぼくが横断歩道を渡っている途中で車に気付くところまでは思い出せるんですが、そこから先はいくら思い出そうとしても何も思い出せません。
ここまで読んでくれたあなたは、恐怖体験とは、この交通事故のことだと思いましたよね。
ちがいます、本当の恐怖はここからです。
ぼくは気づいたら、地球の空気になっているような不思議な感覚になっていました。
よくわからないけど、下には人間たちがいることがよくわかりました。
見えたというよりも、感じられたといった方が近いと思います。
そうしてしばらく空中を漂っていたら、突然ぼくの前に変な生き物(エネルギーの塊)が現れました。
形はよくわからないのですが、ものすごい威圧感で、にらまれるだけで心の中まで見透かされているような、とにかくここにいたくないとぼくの本能が訴えています。
ぼくは逃げようとするんですが、動けません。
そうしているとそのエネルギーの塊は、ぼくの中から何かを取り出してじっくり見ているようでした。
次にそのエネルギーの塊がこっちを見たとき、つぶされるんじゃないかという圧力を受けました。
すると、「よくわかった、どうする?」とぼくに訊いてきたんです。
ぼくはこのとき、本当に生きるか死ぬかを選ばされていると確信しました。
ぼくは死にたくなかったので、「生きたい!」「戻りたい!」と精一杯心の中で叫びました。
するとさっきまで見ていたものをぼくに返して、そのエネルギーの塊は消えてしまいました。
返されたものをよく見ると、それはぼくが今まで生きてきた人生の記録でした。
幼いころから順に並んでいて、中学3年の途中で終わってしまいました。
あれ?この続きは?
と思った時、さっき交通事故にあったことを思い出しました。
そうです、ぼくは戻らなくちゃいけないんです。
下を見て自分の体を探し、見つけました。
戻り方なんて知りませんが、体に戻りたい体に戻りたいと強く強く念じました。
そうしていると、自分の体に吸い込まれていき、次の瞬間、目を開けることができました。
ぼくの目の前には天井が映し出されており、全体が静かにゆられていました。
ぼくは救急車で病院まで運ばれる最中でした。
声がしたのでそっちを見ると、母が泣きながら笑っていました。
ぼくは、「今日って何日?」と訊きました。
今思えば、最初に訊くことじゃないですよね(笑)。
その後、病院で精密検査を受け無傷だったので退院しました。
家に帰ってからは、死んだように眠りました。
ぼくが寝ている間に、ぼくを跳ねた人が家に来てひたすらあやまって帰ったらしいです。
信じられないような出来事ですよね。
でも本当のことです。
信じられないのであれば、無理に信じてくれなくてもいいです。
でもひとつ言えることは、今度ヤツに会ったときが本当に死ぬときです。
そしてヤツにすべてを見透かされても、誇れる人生を歩んでいきたいと思った。
高校
高校からぼくは名古屋盲学校に通いました。
盲学校というと、あなたはどんなイメージがありますか?
自分には関係のない場所とか、なんか暗そうなところとか、いろいろイメージできると思います。
ぼくも「生徒は全員目が見えないか見えにくい人で、学校全体がなんか暗そう」というイメージを持っていました。
だって一度も盲学校に行ったことなかったですからね。
今まで盲学校に行きたくなくて小中合計9年間も頑張ってきたのに、結局最後は盲学校に入ったわけですから、敗北感だらけの精神状態で良いイメージが持てるわけありません。
はっきり言って、底なしの悪いイメージしか持っていませんでしたよ。
普通科
盲学校には大きく分けて、普通科と専攻科の2つのコースがあります。
普通科を卒業すると高校卒業の資格をもらえます。
専攻科を卒業すると、マッサージ師などになるための国家試験を受ける権利がもらえます。
ぼくは当然普通科入学ですね。
クラスメイトは全員男
そんなぼくの精神状態とは関係なく、盲学校生活が始まりました。
ただでさえ盲学校には変なイメージしかなかったのに、なぜだかぼくのクラスはその中でも特におかしなメンバー構成になりました。
まず、クラスメイトは4人だけでしかも全員男です。
ぼくのひとつ上とか下にはちゃんと女子がいたのに、ぼくのクラスだけなんでか男子校でしたからね(笑)。
しかも、盲学校なのに全盲はひとりもいないというなんとも奇妙なクラスになりました(サギですよね)。
高校ですから課目によって先生が変わるんですが、ほぼみなさん「このクラスは珍しい」とか、「このクラスは全盲がいないから資料を作るのが楽だとか」いろいろ言われました。
ひとつだけよかったというか、なんとなく空気を共有できてたところがあって、それは全員普通学校から来たというところです。
みんなそれぞれ普通学校で頑張ってきたけど、いろんな理由で結局盲学校に来ることになったという、なんとも嫌な敗北感だけは共有していたような気がします。
ぼくなんかは単純に勉強がついていけなくなったから盲学校に来ただけですが、そうじゃない人もいましたからね。
クラスメイトに長崎くんというなんとも日本人離れした体形の人がいたんですが、彼はすごく勉強できましたからね。
特に英語が素晴らしく、留学までしましたからね。
中学時代の学習内容がほとんど身についていなかったぼくは、いつも彼に勉強を教わっていました。
彼が留学することを話してくれたとき、ぼくは「じゃあ、だれがぼくに勉強を教えてくれるんだい?」と突っ込みいれましたからね(笑)。
それなのに盲学校に来たわけですから、たぶんぼく以上に悔しかったと思います。
受験なんかでもよく言いますよね。
いくら勉強ができても、試験が始まる時間までに会場に行き、席に座っていないと受験は受けれない。
つまり、ただ勉強ができるだけではダメなわけです。
なかなか悔しいところですよね。
そう思うと、ぼくは単純に自分の努力不足であることが自覚できたので、変な諦めがありました。
盲学校の真実その1
ここではあまりよく知られていない盲学校の真実を暴露していこうと思います。
ぼくが盲学校に入ってまず最初に驚かされたのが、生徒たちの視力が思ったより良かったことです。
もちろん盲学校という名前がついてるわけですから、普通の人に比べて目が悪い人ばかりなんですが、ぼくよりも視力の良い人がゴロゴロいましたからね。
サギだろって思いましたよ(笑)。
もちろん全く目の見えない人とかもいたんですが、そんな人はだいたい半分ぐらいで、残りの半分はぼくぐらいかそれ以上見える人たちでした。
盲学校に入れる基準というのはいろいろあって、単純に目が悪いということ以外にも、将来目が悪くなる可能性のある人も入れるので、普通の人とほとんど変わらないような人もいましたよ。
ぼくよりめちゃめちゃ見えている人が盲学校にゴロゴロいることを知った時、ぼくは今まで何を思って頑張ってきたのかわからなくなりました。
盲学校の真実その2
視覚障害者って運動できない人っていうイメージあるじゃないですか。
目が見えていないぶん状況把握が難しいので、ほかの障害者よりも運動に向いていないような気がします。
少なくてもぼくは運動苦手です。
小学生のころやってた野球ではヒットを打ったことないですし、中学の球技大会でのバレーボールは見学でしたし、バスケではボールが飛んでくるのがこわかったですからね(涙)。
でもですね、盲学校にはそんな人でも楽しめるようにカスタマイズされたスポーツがあるんです。
いくつかあるんですが、代表的なものでは、盲人野球と盲人バレーというのがあります。
盲人野球とは、普通の野球を視覚障害者でも楽しめるようにアレンジしたスポーツです。
まず、普通の野球のボールは小さすぎてわかりにくいので、中に鈴の入ったバレーボールぐらいの大きさのボールを使います。
ピッチャーはボールを投げるのではなく、ボールを転がします。
バッターは転がってくるボールと鈴の音を頼りに、まるでゴルフのようにバットを振ります。
ボールを打ったらもちろんファーストベースまで走るわけですが、方向を教えるために、各ベースにはそれぞれ声を出して誘導してくれるコーチみたいな人がいます。
こんな感じです。
さらにもっと面白いスポーツとして、盲人バレーというのがあります。
これも鈴入りのボールを床に転がして楽しむバレーボールなんですが、室内でやるのでまぶしいのが苦手なぼく向けのスポーツでした。
この盲人バレーは本当に楽しくて、球技大会でさんざんやったにもかかわらず、授業後も残って遊んでいたら、カギを閉めに来た体育教師が「おまえら好きだなー」と言いながらあきれてしまうぐらいでした。
目が見えていなくても楽しめて、目が見えていたらもっと楽しめる、そんなスポーツ体験が気軽に楽しめるのが盲学校の良いところです。
盲学校の先生
盲学校の教員には大きく分けて2つのタイプがあると思います。
1つ目は、機械的に与えられた仕事だけをこなすタイプ。
ほとんどの教員がこのタイプです。
まぁ人間生きていくためにはお金が必要ですから、仕方ないわけですが…。
2つ目は、本当に生徒のことを思っていろいろなことを教えてくれるタイプ。
まれにこういうタイプの先生がいます。
生徒の悩みに真剣に向き合ってくれて、生き方の指導までしてくれたりします。
以上2種類ですが、もちろんぼくの独断と偏見によるものなので、この限りではないですが大きく外していることはないと思います。
もちろん接していて楽しいのは後者のタイプの先生です。
みんなからカッシーと呼ばれている先生がいました。
この先生はいろいろすごくて、授業の内容をまとめたプリントを作って配ってくれるんです。
教科書はほとんど使わず、そのプリントで授業を進めていきます。
なので、そのプリントさえ押さえておけばテストは大丈夫でした。
当時そんなことをしてくれる先生なんていませんでしたから、ぼくはひそかにすごい先生だと思って尊敬していました。
カッシー先生が言っていたことで忘れられないことがあります。
それは「人間はどんなつらい状況でも上を目指さなければならない」という言葉です。
当然と言えば当然なのですが、これを実行に移すのは本当に難しい。
たとえ盲学校に入ってしまったとしても、そこであきらめてはいけない。
当時敗北感百パーセントのぼくの心にグサッと刺さった重すぎるひとことでした。
うわさで聞いたのですが、カッシー先生は今、大学の先生をしているらしいです。
ぜひもう一度、会ってお話ししたい先生のひとりですね。
良いとこ悪いとこ
ここまで読んできたけど、未だに我が子を盲学校に入れようか迷っているというあなたのために、単純に盲学校の良いところと悪いところを書いておきます。
よく言うじゃないですか、良いところと悪いところは紙一重って。
盲学校もそれと同じです。
どういうことかというと、盲学校の最大の特徴は、視力に障害があっても最低限度の教育を受けさせてくれるところにあります。
でも盲学校には、全く目の見えていない人から、将来視力を失う可能性があるけど今は普通の人とほとんど変わらないくらい見えている人まで十人十色です。
そんな人たちに対して盲学校はどんな教育をしているのかというと、「生徒の視力によって教え方を変える」ということをしています。
例えば体育の場合、まず先生は全員の見え方を把握しており、その人の見え方と運動能力に合った指導をします。
盲人野球をやる場合は先生がピッチャーをやるんですが、バッターボックスに立つ生徒によって投げる球を変えるんです。
運動の苦手な生徒にはなるべくゆるく鈴の音がよくなるようにボールを転がし、なるべく打たせるようにするわけです。
そうかと思えば運動のできる生徒には、ほとんど転がってないような速いボールやカーブなんかを投げて、打ち取る気満々でプレイします。
なぜそういうことをするのか聞いたとき、「各生徒の運動能力を見極め、だれでも少し頑張ればクリアできるぐらいの負荷をかけるのが、体育教師の役目だ」みたいなことを言われたことがあります。
こんなこと普通学校ではなかなかできません。
勉強でもそうで、やはり各生徒の学力に合わせた指導をします。
確かにこれなら視力に関係なく、誰でも授業を受けることができます。
でもこれは一見良いことのように思えますが、悪いこともあります。
それは、できる生徒までだんだんできない生徒になってしまうという問題です。
日本の教育は、能力の高い子をさらに伸ばす教育ではなく、能力の低い子をなんとか引き上げることを重視しています。
なので盲学校みたいな生徒の能力に応じて教育の仕方を変えているようなところは、どうしても能力の低い子に割く時間の方が多くなりがちです(先生の数や設備が限られているので)。
したがって能力の高い子ほど自分の力で能力を引き上げていくことを求められるわけですが、そんなこと無理です。
そもそもみんな違うレベルで学習しているので競争なんてありませんし、仮にあったとしても5人とか10人の中でのトップなので、ほとんど意味ないです。
お子さんを盲学校に入れるのであれば、この構造ゆえの問題とどう付き合っていくかというのが肝になります。
視覚障害者の進路
視覚障害者の進路には大きく分けて4パターンしかありません。
1、視覚障害者の教員養成施設に進んで先生になること。
2、はり灸マッサージなどの免許を取って就職もしくは開業すること。
3、障害者雇用促進法の範囲で一般就職を目指すこと。
4、その他
もちろんどれがいいとかはありませんが、やはり教員になるのが一番安定しているでしょうね。
実際人気もありますし、欠点があるとしたら…。
盲学校から視覚障害者の教員養成施設に入って教員になって、無事に盲学校の先生になった場合、視覚障害者の世界しか知らないようなつまらない人間が完成するわけですが(苦笑)。
その場合、最終的に被害を受けるのは生徒であるということに気付かないようにする努力が必要かもしれませんが…。
もちろんすべての視覚障害者の教員がダメだといっているわけではなく、人によるということですよ。
それに生きていくうえではお金は大切ですからね、もし教員になれるチャンスがあるのだとしたら、挑戦すべきだと思います。
たとえ教員になれなくても、公務員を目指すという手もありますからね。
次ですが、2番のマッサージなどの免許を取るのが、未だに一番多いと思います。
免許だけ持っているという人も多そうですし。
3番は一般職を目指すということですが、これはかなりコミュニケーションスキルを求められます。
なぜなら、普通のようにできない視覚障害者が普通の人と一緒に仕事するわけですから、さまざまな工夫とそれを理解してもらえるように話す能力が求められるからですね。
4番はニートとかですね。
若いときであれば、ニート生活を体験しておくのもありだと思います。
もちろんその時に、何をやって過ごすのかが肝ですが。
専攻科
ぼくは高校3年間をすごした後、マッサージ師の免許を取るために同じ盲学校内の専攻科に進みました。
専攻科で3年間勉強すると、マッサージ師などになるための国家試験を受ける権利をもらえ、無事合格すると施術者としての免許を国からもらえる仕組みです。
ぶっちゃけマッサージ師には興味ないんですが、ぼくの将来について親も心配してたし、何より3年間自分の将来について考える時間をもらえるので、ぼくはなんとなく専攻科に進みました。
盲学校の専攻科には大きく分けて2種類あります。
1つ目は、専攻科保健理療科。
これは、3年かけてマッサージ師になるために勉強するコース。
2つ目は、専攻科理療科。
これは、3年かけてハリ灸マッサージ師になるために勉強するコース。
難しいのはもちろん専攻科理療科ですね。
ぼくは中学時代の3年間を遊んですごしたおかげで、勉強にはかなりの苦手意識を持っていましたから、もちろん専攻科保健理療科を選択しました。
3年かけてマッサージ師になるための勉強をするコースです。
そうしてぼくの専攻科保健理療科としての生活が始まったわけですが、すぐに思ってもみなかった問題にぶち当たりました。
それは、学習内容が簡単すぎてつまらないという今までの自分からは想像もできない問題でした。
今までは勉強についていけないというのがぼくの中での常識だったんですが、簡単すぎるというのは想定外です。
これは当然ぼくの頭が良いからというわけではなく、単純にマッサージ師には深い知識が求められていないということが原因でした。
このまま退屈でつまらない時間を3年間も過ごすのかと思うと耐えられなくなってくるので、専攻科保健理療科は1年でやめてしまいました。
エバとガンダムは同じ
次は、専攻科理療科に入りました。
ここは、3年でハリ灸マッサージ師になるための勉強をするコースです。
勉強量もかなり増えるので、たいくつしませんでした。
それに専攻科理療科というコースは特に、人生半ばで視力に障害を持った人が入ってくるので、いろんな話を聴けて楽しかったです。
みなさん趣味もいろいろで、中にはアニメが趣味という人がいたので、よくいろんなアニメの話をしました。
当時はちょうどエバがヒットしたころで、ぼくは同じ学校の人から「エバって何?」と訊かれることがあったので、何回か説明したこともありました。
そうしているうちに、ぼくはあることに気が付きました。
それはエバとガンダムは、ストーリーの基礎の構造が同じであるということです。
エバとは、新世紀エヴァンゲリオンのことで、シンゴジラの庵野秀明(あんのひであき)さんが作ったアニメです。
ガンダムとは、機動戦士ガンダムのことで、富野喜幸(とみのよしゆき)さんが作ったアニメです。
どちらも大ヒットした日本を代表するアニメなんですが、話の基礎が同じなんです。
その話の基礎とは以下のようなものです。
「敵が攻めてきたので、主人公の少年が父親の作ったロボットに乗って戦う」。
エバの場合は、「使徒が攻めてきたので、碇シンジくんが父親の作ったエヴァンゲリオンに乗って戦う」というもので…。
ガンダムの場合は、「ジオン公国が攻めてきたので、アムロレイくんが父親の作ったガンダムに乗って戦う」ですね。
両方とも見たことある場合はわかると思いますが、外見は全然違うアニメですよね。
なのにストーリーの軸が同じというのは、結構面白い視点だとは思いませんか?
おそらくロボットアニメの定番ストーリーなんでしょうね。
ぼくも一言でエバのストーリーを説明しようと思わなければ、たぶん気付かなかったと思います。
隣はB型
B型っていいですよね。
周りの空気に左右されず、いつも自由な感じで…。
あ、B型をバカにしているわけじゃないですよ。
ぼくはいつも誰かにくっついて行動することが多いので、純粋にうらやましいだけです。
ぼくの専攻科理療科時代の隣の席には、3年間いつもB型の人がいました。
彼はいろいろ武勇伝をぼくの心に刻みつけてくれたわけですが(笑)。
その一部を紹介しましょう。
まず、いつもじゃないんですが、わりと遅刻してきます。
さらに彼は授業中に朝食を食べだすんです。
しかも「パチンッ!」と勢いよく箸を割ってパックのお寿司とかを食べだすんですよ。
もうこっちまでおいしそうなにおいがしてたいへんでした(笑)。
そんないろんな意味でうらやましい彼ですが、盲学校に来る前はプログラマーをやってたらしく、ぼくにいろんな話を聞かせてくれました。
ぼくは中学生のころパソコン部だったんですが、盲学校に入ってからはプログラミング活動をできないでいました。
なぜかというと、中学校のパソコン環境と、盲学校のパソコン環境が全然違ったからです。
このころはまだパソコンに全然詳しくなかったので、どうすれば中学校のパソコンみたいな環境を構築できるのかがわかりませんでした。
そうしていつのまにかプログラミングをしなくなっていたんですが、B型の彼のおかげで「そうだ、プログラマーになろう!」と思うようになりました。
正確にはシステムエンジニアなんですが…。
システムエンジニアとは、仕事内容に応じてコンピューターシステムの設計や構築をする人なんですが、まぁプログラマーの親戚みたいなものです。
コンピュータ総合学園HAL
ぼくは結局高校3年の後、3年でマッサージを学べるコースに進んだんですが1年で辞めて、3年で「はり、灸、マッサージ」を学べるコースに進み一応免許を取って卒業しました。
なので、合計7年も盲学校で過ごしてしまいました。
いろんないみでたいへんでした(笑)。
その後1年ぐらい病院で働いて、ぼくの夢であるシステムエンジニアになりたくてコンピューター総合学園HALに入りました。
この学校はもちろんコンピューターの専門学校なんですが、服飾の専門学校のモード学園と交流がありました。
なぜなら、当時の学長が同じだからですね。
ここまでの流れでなんとなくわかったかもしれませんが、このコンピュータ総合学園HALというのは結構変わった学校です。
どのあたりが?先生たちがです(笑)。
ぼくは視覚障害者の弱視ではじめてHALに入ったので、変わった先生たちからさらに変わった眼で見られたわけですが、課題を提出してはじめてやっていけそうだとわかってもらえたような気がします。
プログラミングを教えてくれた先生なんかは、ものすごくほめてくれましたからねー。
いったいぼくのことをどう思っていたのか訊くのも恐ろしいですが(笑)。
まぁ社会の視覚障害者に対する認識なんてそんなものです。
どんな分野でも自分を認めてほしかったら実力を示すしかないです。
こんなに簡単
夏休み中のプログラミングの授業の課題は、「何かソフトウェアを1本作る」というものすごくアバウトなものでした。
みんなは何を作ろうか悩んでいる様子でしたが、ぼくはすぐに決めました。
モグラたたきゲームを作ることに決めました。
そうです、中学時代のパソコン部のリベンジです。
モグラを描いたりなどあそこまで見た目の完成度を上げることはできませんが、画面上にテンキーを描いてその早押しゲームとしてしまえばいいのです。
まだ夏休み前だったんですが、課題が発表されたその瞬間からもう戦いは始まっています。
ということで、すぐにゲームの流れを考え、プログラム設計を始めました。
どんなゲームにしようか考えているときが、一番楽しいですね。
もちろん実際にプログラムを書いているときも楽しいんですが、まだこのときはプログラミング技術なんてありませんから、自分のやりたいことがどうすれば実現できるのかをしょっちゅう調べていましたね。
当時プログラミング関連で調べものをするならMSDNが最強でした。
でもこのときのMSDNというのはほとんど英語で書かれていたのでかなりたいへんでしたが、ぼくもめちゃめちゃやる気に満ちていたので、一生懸命英語を読みましたよ。
そうしてトライアンドエラーを繰り返し、ついにソフトウェアが完成しました。
プログラミング作業だけなら10日ぐらいで作り上げたと思います。
中学時代は何ヶ月も時間を費やしたのに、結局できなかった。
でも、プログラミングを基礎からしっかり学んでいれば、こんなに簡単にできちゃうんですね。
稲葉信者
HALには変わった先生がたくさんいますが、ぼくは稲葉先生がいちばん変わっていると思います。
稲葉先生はぼくのクラスの担任であり、コンピューターサイエンスという授業を担当していました。
仕事でコンピュータを教えながら、趣味で体を鍛えたり格闘技をやったりしているんです。
もちろんすごい筋肉なんですが、先生曰く筋肉だけだともろく、戦うためにはその周りを脂肪で覆う必要があるらしいです。
そんな感じなので体も大きくやばい感じが見てわかるんです(笑)。
格闘試合も普通は急所への攻撃は禁止なんですが、稲葉先生が通っているところは「やられるやつが悪い」という理屈でなんでもありだそうです。
そんな超体育会系の先生なんですが、授業後時間があればいつもぼくたちの教室に来ていろんな話をしてくれました。
生徒への対応もすごくて、ぼくが黒板の字が見えにくいことを相談したら…。
「だったら、オレのデータをやるからそれで勉強しろ」
と言ってくれたんです。
ここまでしてくれるのは盲学校のカッシー先生以来です。
しかも本当に先生が自分のために作ったノートだったので、めちゃくちゃ丁寧に要点がまとめられていました。
ここまでやってくれたら男としてぼくも答えないわけにはいかないので、稲葉先生の授業はめちゃくちゃ頑張りました。
稲葉先生を崇拝している生徒がいると聞いたことあるんですが、確かにわかる気がします。
そんな感じで大変だけど楽しい毎日を過ごしていたんですが、楽しい時間ほど長くは続かないものです。
HALに入って1年がたとうとしていたころ、ぼくの視力が急に落ちてきたんです。
正確に言うと徐々に落ちてきたのかもしれませんが、もともとそんなに見えていませんでしたから、気づくのが遅かっただけかもしれません。
とにかく今まで見えていたものが急に見えなくなって驚きました。
一番ショックだったのが、エスカレーターの近くに立ってもどちらが上りでどちらが降り化がわからなかったときです。
このときはさすがに学校をやめることを決意しました。
でもあと数日出れば皆勤賞をもらえたので、見えないながらもなんとか残り数日がんばって通いました。
稲葉先生に学校をやめることを話すと、先生は「今までも工夫してやってきたんだから何とか続けられないか?」と言ってくれました。
ぼくは「目が見えにくいのと見えないのとでは全然違うんです」と言いたかったんですが、声を出す前に涙が出ました。
人前で恥ずかしいはずなのに、涙が止まりませんでした。
そんなぼくを見て、稲葉先生は「わかった、後のことはオレがやっとくから」と言ってくれました。
そうしてぼくの最高の時間は終わりました。
妖怪くっちゃね
見えなくなってどのくらいの日数がたったでしょうか。
ぼくはしばらく妖怪くっちゃねになっていました。
まる1日ほとんど何も考えずベットの上で過ごすんです。
ハンター×ハンターのDVDを全巻もっていたので、再生しながら音だけ聴いてそのシーンをひたすら思い出すということなんかもしてましたね(暗すぎ)。
ちなみにハンター×ハンターのDVDはもちろん最初のですよ(キルアの声優が三橋加奈子さんのバージョン)。
何も見えなくなってまだ日が浅いころは、朝起きて目を開けても目の前が暗いままなので、気が狂いそうになりましたが(すでに狂っていたのかもしれませんが)。
人間という生き物は恐ろしいもので、しばらく何もしないで過ごしていると、何もしないことに飽きてくるんです。
本当に身勝手な生き物ですよね。
ようするに何かしたくなるわけです。
ぼくはそのときはじめて自分のパソコンに画面読み上げソフト(スクリーンリーダー)をインストールしました。
高級言語
見えていたころの貯金があるので、スクリーンリーダーでの操作はすぐ理解できました。
Windowsの操作はもちろん、インターネットサーフィンにも慣れてきました。
そうなると、やはりHALで覚えたプログラミング技術で遊びたくなります。
このときのぼくはC言語と当時勢いのあったMFCという2種類のプログラミング言語しか使えませんでした。
どちらもVisualC++というソフトを使って作っていました。
今はVisualStudioという統合開発環境のみになっていますが、当時はVisualC++とかVisualBasicなど単体で売られてたんです。
まぁなんにしてもVisualC++が使いこなせないと話にならないので、スタートメニューから立ち上げたんですが…。
これが当時のスクリーンリーダーでは読まなかったんです。
そりゃもう壊滅的に(笑)。
あんなに苦労して覚えたVisualC++が使えないことがわかって、すごくがっかりしました。
まぁでも使えないものはしかたないので、ならば今度はVisualC++のような専用ソフトを使わないでプログラミングできそうなものを探しました。
一番手軽に遊べそうだったのが、CGIプログラムでした。
HTMLとJavaScriptはある程度使えていたので、次はCGIという流れは当然ですね。
HTMLとは、ホームページのレイアウトを表現する言語です。
JavaScriptとは、HTMLに組み込んで動かすスクリプト言語です。
CGIとは、インターネットサーバー上で動くプログラムの総称です。
なのでこれら3つの言語を使いこなせると、ある程度インターネット上で好きなことができるようになるんです。
すべてWindowsのメモ帳で作ることができ、インターネットサーバーにファイルをアップロードしてこちらからアクセスするだけで、勝手にプログラムが動いてその結果を表示してくれるので作る方も楽です。
CGIにはいろいろな種類のプログラムがあるんですが、当時勢いがあったのがPerlというスクリプト言語でした。
ぼくは勉強のために早速、掲示板のPerlスクリプトファイルをダウンロードしてその中身をメモ帳で開いてみました。
はじめて見る言語だったので細かいところまでは分かりませんでしたが、だいたいの流れは理解できました。
プログラミング言語には、大きく低級言語と高級言語の2種類あります。
ものすごく簡単に言うと低級言語とは、コンピューターの処理目線で設計されたプログラミング言語のことです。
これに対して高級言語とは、人間目線で設計されたプログラミング言語のことです。
わかりやすいのはもちろん高級言語ですね。
一般向けに公開されているプログラムのほとんどが高級言語で、もちろんC言語もPerlも高級言語ですから、たとえPerlがはじめてでもなんとなくわかるというわけです。
無ければ創ればいい
ぼくのような全盲のスクリーンリーダーユーザーでも、メモ帳とインターネットサーバーがあればCGIプログラム開発ができることが分かったので、試しに何か作ってみたくなるのは当然ですよね。
まずはPerlの基礎を学習し、応用として公開されてるプログラムの中身を見て自分なりに研究し、そこから改造したりしてました。
そうしてある程度自信が付いたので、いよいよ実戦です。
何を作りましょうか…。
車輪の再発明でもいいんですが、やはりワクワク感に欠けるので、ぼくが今欲しいものを作ることにします。
それはMIDI作成CGIです。
MIDIとは演奏情報を一定の規則に従って記録したデータのことです。
当時はぼくのような全盲のスクリーンリーダーユーザーがパソコン上で楽曲を創ろうと思っても、使いやすいMIDI作成ソフトがありませんでした。
楽曲作成ソフトというと、やはりマウスでおたまじゃくしを貼り付けていくタイプのものがほとんどで、全盲でも使えるものはまずありませんでした。
でも無いのであれば欲しい人が創ればよいのです。
CGIプログラムというのはその性質上、2秒ぐらいしかインターネットサーバーの頭脳であるCPUを独占できません。
なので、ドレミなどと書かれたテキストファイルをCGIに渡すと、2秒以内にMIDIファイルに変換してくれるような感じにするのが理想的です。
そうと決まれば開発開始です。
まずは、CGIでMIDIを作ってくれるものがないかを探しました。
確か3つぐらい見つかったような気がしますが、どれも実用に耐えるほどの性能ではなかったので、すべて却下です。
でもこのときに、PerlのMIDIモジュールがあることを発見しました。
モジュールとは、ある目的を持った部品の塊です。
PerlからこのMIDIモジュールを呼び出すと、MIDIを作ったり読み込んだりできるようになるというなかなか優れもののモジュールです。
こんないたれりつくせりのモジュールを使わない手はありません。
早速組み込んで自作のMIDI作成CGIを作ろうとしたんですが、問題がありまして…。
それは、このMIDIモジュールの配布元のページがすべて英語なんです。
ということはもちろん使い方も英語で書かれてるわけですよ。
スクリーンリーダーの音声にもやっと最近慣れてきたところなのに、英語を読ませるなんて、そんな無謀なことできません(笑)。
それにMIDIモジュールができることに対して、説明している分量が明らかに少ないんです。
英語苦手なぼくにでも、明らかに簡単にしか説明していないことがわかるんです(配布元なのにですよ)。
仕方ないので検索結果を日本語のみにして、MIDIモジュールの使い方を解説しているページを探しました。
当時たしか200ページぐらい検索結果に出たんですが、もちろん全部見ましたよ。
時間だけはたっぷりありましたからね(笑)。
それに軽く紹介しているだけのページが多く、詳しそうに見えるページも最後は配布元の英語のページにリンクしているだけで、結局有効なページを見つけることができませんでした。
うーん、どうしたらよいのでしょうか…ひたすら考えました。
やっぱり英語は避けられないのでしょうか。
3歳ぐらいの国王に、「英語も読めない愚民は滅びてしまえ!」と言われている気分です。
冗談を言っていてもはじまらないので、考えに考えたあげく、以下のような作戦をとることにしました。
まず、MIDIファイルを渡すとその内容をただテキストファイルに書き出すだけのCGIプログラムを作ります。
バイナリエディタを使えば一発なんですが、スクリーンリーダーでは使えないことと、MIDIモジュールの読み込み機能を使ってみたかったので、自作することにしました。
次に、以前見つけておいた実用には耐えられないけど、ぼくでもMIDIファイルを作れるソフトを使って簡単だけど内容が少しずつ違うMIDIファイルをたくさん作ります。
具体的には…。
1つ目にテンポ120で4分音符のドが1回だけなるようなMIDIファイルを作ったとしたら。
2つ目は、1つ目のMIDIファイルの4分音符を8分音符にしたものを作るとかです。
このように内容を1箇所変えただけの簡単なMIDIファイルをたくさん作るんです。
次に、最初に作っておいたMIDIの内容をテキストファイルに書き出してくれるCGIを使ってすべてテキストファイルにします。
あとはひたすら研究です。
テキストファイルを見比べて、どの部分の数値をいじれば、MIDI演奏がどう変わるのかというデータをひたすら収集していきました。
毎日毎日超ジミな作業を修行僧のようにただひたすらこなしていました。
正確には覚えていませんが、だいたい1ヶ月ぐらいやってたような気がします。
これだけ読むと本当に大変そうですが、研究がひとつ進むたびに、自作のMIDI作成CGIの機能がひとつ増えるわけですから、思ってたほど苦しくなかったです。
それに、数をこなせばこなすほどなんとなくパターンがつかめたり、MIDIのデータ構造を解説したページは日本語でも結構充実してたので、だいぶ楽できました。
そうしてMIDIのデータ構造をある程度理解できたら、次はあの英語で書かれたMIDIモジュールの配布ページに行き、そこに書かれているMIDIファイルを作っているプログラム例をコピーして実際に動かしてみます。
作られたMIDIファイルを再生させて音を確認したり、MIDIの内容をテキストファイルに書き出すCGIを使って中身を確認したりして、あのページに書かれていたプログラミング例の内容を研究しました。
はじめはプログラミング例に書かれていた数値や文字列といったMIDIの設定値の意味が分からなかったので、難しかったんですがわかってしまうと簡単ですね。
ようするに時系列にMIDIの設定値を並べてMIDIモジュールにポンポン投げて、最後に基準となる4分音符の値やフォーマットなどを設定してやればMIDIファイルの完成です。
ここまでわかってしまえばあとは実際にコードを書いて作るだけです。
ひたすらコードを書いてエラーを修正し、やっと完成しました。
テキストファイルからMIDIファイルを作る方法
https://kimurashuuichi.com/desktopmusic/midi.html
今読むと突っ込みどころまんさいのページですね(苦笑)。
これで完成といいたいところなんですが…。
実はこのとき普通の人にはほとんど知られていませんでしたが、初音ミクがオタクの中でブームになっていました。
ぼくも使ってみようと思って初音ミクを買ったんですが、実際にパソコンにインストールしてからスクリーンリーダーではほとんど使えないことを知りました。
これにはショックだったんですが、少し調べてみたらとても面白いことが分かったんです。
それは、初音ミクの保存ファイルについてです。
初音ミクの保存ファイルはVSQファイルといって、その書式はオリジナルなんですが、ほとんどMIDI規格に準拠していたんです。
試しにMIDIモジュールで開いてみました。
見た感じではMIDIのファイル構造がわかっていれば、7割ぐらいは理解したのと同じ感じです。
乗りかかった船です、ここまできたらテキストファイルから初音ミクのVSQファイルを作るCGIも作ってしまいましょう(笑)。
そうして乗りと勢いだけで作ったのが以下のページです。
テキストファイルから初音ミクなどで使うVSQファイルを作る方法
https://kimurashuuichi.com/desktopmusic/vsq.html
これも今読むと突っ込みどころまんさいですね(苦笑)。
ここまでで、ぼくのような全盲でも初音ミクを使ってパソコンで楽曲を作れることが証明できました。
まさに革命です。
他人と分かち合う
この技術をひとりで使っていてもつまらないので、視覚障害者のメーリングリストに投げてみんなの様子を観ることにしました。
メーリングリストに投げてすぐ、いろんな人から返信がありました。
上は70歳ぐらいから下は中学生まで本当にいろいろな人がメールをくれました。
人によって反応はいろいろでしたが、おおむね好評でした。
みんなのメールを読んでいるうちに、興奮を司る神経伝達物質が頭の中を駆け巡り、あっという間にハイテンションになりました。
だって今まで自分ひとりでやってきたことが、他人にも受け入れられたんですよ。
こんなうれしいことはありません。
これでもみんなに発表する前までは結構びびってたんですよ。
メーリングリストには親しい人もいませんでしたから、滑ったり無視されたらそこで終わりです。
本当にドキドキしてたぶん、喜びも半端じゃなかったです。
他人と分かち合うことで喜びは何倍にもなるというのは本当だったんですね。
今は
あれから何年経ったでしょうか。
技術は日進月歩です。
2017年に新しく全盲でもパソコンで楽曲を創る方法のバージョンアップ版を公開しました。
全盲でも初音ミクを使って作曲する方法
https://kimurashuuichi.com/desktopmusic/vocaloid4.html
月刊視覚障害という雑誌の2018年2月版にぼくの活動を載せていただくことになりました。
何年かやっていると、こんないいこともあるんですね。
さらに、昔はスクリーンリーダーで使えなかったVisualStudioも少し工夫すればなんとか使えるようになりました。
久々のC++復帰です。
音楽の話題ばかりではつまらないので、簡単なオセロゲームを作りました。
みくみくオセロのダウンロードと遊び方
https://kimurashuuichi.com/download/osero.html
これは初音ミクの声で石の情報をガイドするオセロゲームです。
音声ガイドさえ付けることができれば、目が見えなくても十分遊べるゲームアプリになることがわかったので、今度は映像と音声の両方で遊べるアプリを作りました。
目の見える人と見えない人が一緒に遊べるパズルゲーム
https://kimurashuuichi.com/download/tilepuzzle.html
2つともキーボードおよびマウスで操作できるので、目が見えるとか見えないとかに関係なく遊べます。
新世界へ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
2020年1月、ぼくは、新しいサービスを開始しました。
それは、目が見えなくても工夫すれば攻略できることをレポートにして販売するというサービスです。
第一弾として、目が見えなくてもルービックキューブで六面そろえる方法というレポートの販売を開始しました。
あなたの参加をお待ちしています!
ありがとうございました。